登校拒絶

  • 2018.09.25 Tuesday
  • 15:30

今日からうちの小学6年生の次女が、学校へ行くのをやめます。

不登校とは少し違うかも、「絶対行かない」という強い意志があり、登校拒絶です。

 

これは、怒りの抗議です。

先週末、うちの子はすごくショックを受けて帰ってきました。

やってもいない罪で先生から叱られた、というのです。

それが原因で、「もう学校へは行きたくない」と言いだしました。

 

なぜそうなったかというと、友人二人に陥れられたのです。

罪を被せられたのです。

私が親だからうちの子が正しいと思い込んでいるわけではなく、これまでの情報から客観的に判断して、冤罪なのです。でも情況証拠にすぎません。

 

その友人二人とは、ここ数年ずっとトラブルが絶えず、うち一人とはプライベートでの付き合いを一切断っていました。学校でも、うちの子から話しかけることはありませんでした。

 

低学年の頃から、繰り返し繰り返し私に相談してきては何度も関係修復を図ろうと頑張ってきました。

もう限界でした。本人も私も。

 

これが友人トラブルだけで終わらず、先生が真実を確かめようともせず、うちの子をやってもいない罪で人前できつく叱った、ということがどうにも許せません。

信頼関係とは、一瞬で崩れるものですよね。私も気を付けよう。

 

今となってはもう真相などわかってもらおうとは思わないし、どうでもいいです。

みんな我が子を信じたいでしょうし、先生もみんなを信じたかったのでしょうし。なぜかうちの子のことだけ先生は信じなかったようですが。

 

例えうちの子が許しても、私は許しません。

彼らを嫌いになることはないし、憎みもしないし、責めたりもしませんが、許しはしません。

私は牧師でも神父でもないし、罪を許したりはしません。

許せない人たちと共存していく、それだけです。

 

校長先生は、「イヤな人間関係はこれからもたくさんある。それから逃げないことを学ぶのも学校です」とおっしゃいました。確かにそうかもしれません、そういう学びもあるでしょう。

でも、そのような正論が弱っている人間をどれだけ追い詰めるのか、考えてみて欲しいです。

 

逃げてもいい。助けを求めてもいい。関係を絶ってもいい。

嫌な人間と無理に仲良くする必要などない。

そのような学びが今のうちの子には必要です。

学校に行きたくなくなるほど何年も頑張ってきたのですから。

 

制服制度

  • 2018.07.10 Tuesday
  • 19:24

ちょっと前に、私、こんなつぶやきをしたんですよ。

下着の色指定や、体育時には肌着つけないなどのブラック校則について。

そしたらですね、とんちんかんな脳内変換をされる方がおられて、

どうやら「制服制度を否定している」と思われたんですね。

 

否定も何も、制服が実は任意なのは私の個人的見解ではなくて、事実なんですよ。

で、ツイッター上ではただの一度も私の制服に対する考えは述べたことない。

(幼稚園で制服強要された事実だけは話したけど)

 

そこで、私が学校の制服についてどう考えているかを一度述べておこうと思います。

 

私は制服不要派ですが、必要と考える人も多いでしょうし、私が反対したところで学校の制服制度がなくなるわけではありません。なので、制服制度を以下のようなものにすればベストだと考えています。

 

○制服か私服かを選べる。(本来は選べるんだけども)

○制服のデザインが豊富。(男子もスカートはけたりとか)

○無駄な刺繍など要らないので、安くすべき。(ブラウス等は市販品でもよい)

○靴下や靴など小物まで指定しない。

 

私立でしたらアルマーニ制服が自慢の園や学校があってもいいわけです。

 

制服あってもいいかな〜と思うのは、やっぱり貧乏だと、ダサい服とか親戚のお下がりとかしかないから、制服のほうが余計なこと考えなくてすむかな、って個人的な体験からです。

 

ま、制服ないならないで、私なら毎日ジャージ登校してただろうな。実際に中学の頃は体操服登校していたし。(怒られたけど)

 

あってもなくてもいいけど、誰かに制服を強制するのはダメなんですよ。

今のところ、ほとんどの中高生諸君は誰かに強制されて制服着てるなんて認識はないんじゃないの?

別に苦痛じゃなければ着ればいいさ。

 

あの海外のピアスして髪染めてる子供たちへのインタビュー見ましたか?

「なぜ?学校は勉強するところよ。着るものやファッションなんて関係ないじゃない」

そ、そうですね・・・おっしゃる通りです。

 

とにかく、制服なんて、「毎日着るものに悩まなくていい」「仲良しさんと毎日お揃いの洋服♡」程度のメリットしかないですね。

帰属意識とか規範意識とか、制服でそれほど効果あるとは思えませんが、探せばきっと何かしらの教育的根拠がみつかるのではないかな?制服ある学校のほうがない学校よりもなんちゃらかんちゃら〜とか。

 

どのみち子供に制服着用を義務付けてもよいという法などないので、結局は「個人の自由」でどうぞ、となりますね。

 

 

私が勤める保育園に、神村学園の実習生さんが来たんですけど、私好みの可愛い制服着てるんですよ。

「うわ〜可愛い〜」って同僚の先生に言ったら、その先生も神村学園の出身だったそうで、「可愛いですよね、私はあのデザインは買わなかったけど」って言われて、思わず、え???

 

デザインを選べるんですかぁ〜〜〜???

 

調べてみたら、なんと、想像以上に選べたw

すごい。私立って、どこもそんな感じなんですか?

 

神村学園の制服コレクションを眺めながら、うーん、もう少しバリエーション増やして欲しいな、男子もスカートはけるようになってたらいいな、とかいろいろ欲が出てきましたw

 

 

制服もPTAも任意。この事実が「制服なくせPTAなくせ」に聞こえるのは一体なぜなんでしょうね。

 

JUGEMテーマ:学問・学校

制服強制事件

  • 2018.05.19 Saturday
  • 22:53

17日朝、私はなんとも言えぬ感情に襲われた。

これは怒りなのかわからぬほどの怒りで身体が震えた。

私は何に対してこんなにも怒っているのか?

 

これまで幼稚園の先生の言動や対応におかしいなと思っていたことはいくつかあった。

例えば、

先生から「制服着なさい」と息子が言われたこと。

先生から「わたしじゃなくてボクでしょ」と息子が一人称を直されたこと。

承諾なしのテレビ撮影。

 

給食の無理強いもありましたね。

 

そして今朝、息子のクラスの集合写真を見て、フォーマル私服を着せたはずの息子が幼稚園の制服を着て写っていることに気付いた。

 

手が震えた。

 

それのどこが?そんなことで?と思われるかもしれないが、そもそも私は制服が大嫌い。

私にとっては、イスラム教徒に豚肉を食べさせるくらいのあり得ないことで、個人の尊厳を著しく傷つけることだった。

 

ここに至るまでにはちょっとした経緯がある。

まず、この認定こども園では、制服は1号認定児のみで、2号3号には制服はない。強制できない。

これは市の保育課でも確認したが、2号3号には制服を強制しないようにと指導しているそうだ。

1号認定は自らの希望でその園に通っているが、2号3号はそうとも限らないからだ。

(認定の違いについて知らない方は他で調べてください)

 

うちは貧乏なので制服は買わないと決めている。

 

昨年、うちの子が年少のとき、写真撮影の日は普段着で行った。

先生には「制服ない子はこのままでいいんですかね?」と尋ねたが、「どうですかねぇ?」とわからない様子。

「まぁ持ってないんだからしょうがないですよね、このままでいいですね」という軽い感じだった。

実際、そのまま私服姿で写真は撮影された。

 

ところが修了式の日に、息子は先生から「制服着なさい」と言われたそう。

息子は先生から注意のようなものを受けたことで怒っていた。

私も腹が立ったが、まぁ先生も任意とは言えやはり制服着せたいんだろうなと思った。

 

息子はこれまで一度も制服を着たいなどと言ったことはなく、毎日好きな服を自分で選んで着て行っている。

我が家では、自分の身につけるものはほぼ全て買うときから自分で選ばせるようにしている。(これには理由があるがここでは割愛する)

 

そうは言ってもやはり式とか集合写真はフォーマルなものが良いとは考えていたので、春休み中に息子と二人で本人の気に入るフォーマル風な洋服を買いに行った。

幸い気に入るものがあり、息子もそれを着るのをすごく楽しみにしていて、当日もすごくうれしそうに着て行った。

先生からも「かっこいー」などと言われ嬉しそうにしていたのを覚えている。

 

なのに、撮影はなぜか制服だった。

出来上がった写真を見た息子曰く「○○先生が大好きな洋服をとった。○○くんの制服を貸してくれた」と。

 

なななななんてことをしてくれたんだぁーー!!!

子どもの権利条約を読んで理解しているのか!!

改訂された認定こども園教育・保育要領は読んでいるのかぁーー!!!こらぁ!

日本国憲法を理解しているのかぁーーー!!

 

直観的に私の脳内をそのような言葉が駆け巡り、怒りのあまり手が震えだしたのだ。

 

普段着ないような洋服を着て行ったのだから、普通の人間なら「あ、この洋服を着て撮影をする気なんだな」と一目でわかるだろう。私もそれなりに配慮して、全体の雰囲気を壊さないよう色味を押さえたシンプルなものを買ったつもり、ていうかフォーマルなものって大体そんな感じ。

 

でも、教員がその意思をいともあっさり無視し、個人の価値観なのか園の方針なのか知らないが、「制服を着ねばならぬ」という価値観を押し付けたのだ。子供に。私に。

 

こちらの意向を無視したのだ。無視。ここが一番の怒りポイントだったのかもしれない。

 

ものすごく厳しく言うと、

このようなことが無自覚に平然と行われ教員の誰もが疑問に思わないということは、不勉強や権利意識の低さの現れである。

えらそうに言ってごめん。

 

ただ、現場の先生方は非常に善良な方々です。本当に。人間的には信頼してる。

普通の感覚で、「みんなが着てるんだから一緒に着ようね」程度のことで着せたのでしょう。まさか個人の尊厳を傷つけるとまで言われるような重大事案だとは予測できなかったでしょう。それは無理もない。

 

その後、園と話をしたときに、副園長先生が「ひとりだけ私服だと可哀想だと思ってやったことなので」とおっしゃった。

え?流行りの忖度ですか???

悪意がないことはわかる。悪意があってしたなら訴訟ものだ。

 

実際には可哀想なことではない。本人は大好きな洋服をとられたことを訴えてきたのだから、そのことの方が可哀想なことだったのだ。

子どもの気持ちに寄り添うとは、難しいとは思うが、それがこの専門職の仕事なのだ。

 

なぜみんなと同じものを着ないと可哀想なのか?

中にはそういう子もいるだろう。みんなと同じものを着て喜ぶ子もいるだろう。だが現時点でのうちの子は違うのだ。

まぁ「みんな一緒教」についてはひとまず置いておいて、理屈の話をしたい。

 

 

制服の法的根拠、憲法、権利条約、人権についてはこの弁護士さんのページが参考になる。

どうなってるんだろう?子どもの法律 学校で制服を着ないといけないのが嫌だ

 

しかし,学校の生徒の制服は,法律がありません。


日本は,子どもの権利条約という世界との約束で,

「子どもの表現の自由を制限するときは,きちんと法律を作らないといけない」

と確認しています。

制服については,その法律がないのです。


法律がないのは,服装の自由を制限しなければいけない「よっぽどの理由」じたいが,ないからです。

 

制服のルールは,それぞれの学校が決めています。

学校は,みんなが安心・安全な学校生活を送るためのルール,いわゆる「校則」を作ることができます。

でも,学校は,何でも好き勝手に校則を作れるわけではありません。

憲法がとてもだいじにし,法律でも奪っていない生徒の服装の自由を,

学校生活のためという名目(めいもく)で学校が簡単に奪ってしまうことは,許されません。

 

みんなが制服と呼んでいるものは、実は「標準服」といって、「これを着ることが望ましい」とされている、単なるお願いレベルのものなのです。着たくなければ着なくてよいのです。義務でも強制でもありません。

ただし、他人の権利を侵害したり迷惑になるような服装はいけませんよ、ということです。

 

そして、昨年度改訂された「幼保連携型認定こども園教育・保育要領」には次のように書かれています。

第4章子育ての支援

第1 子育ての支援全般に関わる事項

1 保護者に対する子育ての支援を行う際には、各地域や各家庭の実態等を踏まえるとともに、保護者の気持ちを受け止め、相互の信頼関係を基本に、保護者の自己決定を尊重すること。

 

「保護者の自己決定を尊重すること」これが最重要句なわけですが、「子育ての支援を行う際には」と書かれているので、制服強要は別に子育て支援とは関係ないしーという反論が考えられますよね。

 

さて、我が家は貧困家庭に入りますので、経済的支援という観点から制服購入の強制はしないという方針は子育て支援にもなるかと思われます。

では、集合写真撮影時の制服拒否はどうでしょうか。

私は、経済的理由で制服購入をしませんが、自分の育児観や信念で制服撮影拒否をします。幼児期に人と同じ服装をすることに教育的意義をあまり感じませんし、人と違うことを認め合う価値観を育むことが目的であり、協調とはそのような異なる価値観を持つもの同士が共存するためのルール作りをしていくことであって、決して多数派に合わせて妥協するということではありません。それはただの同調ね。

子育てに直結する信念である以上、それを尊重することはこれもまた子育て支援であると考えます。

親の精神安定、幸福感が子供の情緒安定に影響することは自明の理です。

 

副園長先生はこうもおっしゃいました。

「園の教育方針と岩元さんのお考えが合わないことが今後あるかもしれませんが」

 

これまで、園の教育方針とか理念については特に何も問題に感じたことはありません。

先生個人のやり方に疑問をもつことはあれども、園の教育方針を捻じ曲げてまで自分の要求を通そうなどという気は毛頭ない。

 

いまいち理解されておらぬのが残念なのだが、私が今回園に対して指摘した問題はすべて、普遍的な「人権の尊重」というテーマに結びつくことばかりなのだ。ズバリ人権の問題なのだよ。

 

ただ、副園長先生にとっては、そのような問題意識ではなく、園独自の方針で決める問題であるようでした。

「撮影時は制服を着てもらう方針でよいか」と言われたので、今後そのようなルールを園の教育方針として定めようとされているのでしょう。

 

これについては私も一定の理解は示したいと思います。

市役所の保育課にも「撮影時に制服着用を拒否したらどうなるのか」という質問をしており、そのような場合の指針がないので検討すると現在回答待ちである。

 

ここでひとつの疑問が生じるわけです。これが公立園なら話は簡単で、上記の弁護士さんのお話のように、制服を着る着ないは完全に個人の自由、ということで決着するわけだけど、この認定こども園は私立であって、その教育方針については自由裁量が認められているわけですもんね。

弁護士さんもおっしゃるように『ただし,公立ではなく私立の学校では,「その学校のルールをわかったうえで,自分から希望して入学した」ということが重視されるので,校則で決められている制服を着なければ,停学や退学などの懲戒処分を受けてしまうことがありえます。』ってことなんだよ。

 

私立学校の校則と個人の権利が衝突した場合はどうなるかっていうと、裁判での結論を簡単にいうと「憲法は直接的には国や地方公共団体が守るべき約束だから、私人同士のお約束には適用されるものではなく、社会通念上合理的であるお約束ならOKだよ」って感じね。

 

まぁ制服着用義務のルールは私立学校では社会通念上合理的であると言えるかな。

幼児教育においても日本では制服のある園など一般的ですし、それなりに合理的な理由があるのでしょう。教育的効果や意義があるかというと個人的には疑問ですが。その後入学する小学校には制服ないしさ。単なる大人の都合でしかないように思える。

とにかく「その学校のルールをわかった上で自分から希望して入学した」ことが重視されるわけで、納得できます。

 

我が家、2号認定で、第1に希望して入ったわけではありません。制服強制されない理由はここにあります。ただ、いくつかの希望にこの園を書いたことは間違いなく、入ったからにはそれなりに園の方針に従うものかなと思ってはいます。

 

じゃ素直に従えよ、って話なのですが、

理屈で考えることは私にとって非常に大事なことでして、ホントややこしい性格でごめんなさい。

 

そして、本来一番重要な、子ども自身の気持ち。

彼は望んでもないのに制服を着せられたものの、なんかわからんけど先生が言うからしょうがないやという感じで従ったのではないかと推測されます。写真は楽しそうに写っております。

 

なので本人がそこまで嫌がるものでもないなら、撮影時は制服でもいいかと考えてはおります。

 

これまでただの一言も「制服着たい」などと言ったことはありませんが、そんなことを言うとすぐ「それは大好きなお母さんの気持ちをくみ取って望まれる通りにふるまっているだけだ」などと他人の子のことをよく知る超能力者が現れるので、今回の話し合いでは子どもの気持ちはどうかということはあまり論点にしませんでした。

子供が先生の顔色をうかがって、先生の望む行動をとることもよく知られていることであり、「園では制服着たいと言ってましたよ」と言われようものなら、「それは本心ではない可能性があります」と結局水掛け論になりますしね。

 

今回の園との話し合いでは、父母会の負担についても話しました。これについてはまた別の機会に書けたら書こうと思います。

 

JUGEMテーマ:幼稚園

ルールを破ってよいとき

  • 2017.12.04 Monday
  • 18:28

熊本市議がルールを破って赤ちゃんを議場に連れてきたニュース、

ルールを決める場でいきなりルール破りとかヤバイでしょ、と思ったのだけど、

ネットではルール破りを正当化する意見でいっぱい。(もちろん反対の意見もいっぱい)

 

その中で、唯一納得できた意見は、

『緒方議員は一人会派なので、議会のルールを変更する場に出ることができない立場であり、事前に相談などしたが個人的な問題として取り合ってもらえなかったので今回のような手段で訴えた』

 

ホントにこれだけ、これだけだよ、私がそれなりに納得できる意見だと思えたのは。

その他の海外がどうだとか、それをいうのは卑怯だとか、次元の違う話だとかはルール破りを正当化する理由にはならないじゃん?

 

なるほど、ルール変更できる手段がない場合はルール破りもOKか。

確かにね、緒方議員はそれまでにいろいろと交渉してきたようで、詳しく経緯を知れば、いきなりルール破りというわけでもなかったようだし。

議論するために存在するはずの議員が、議会のルール変更の議論ができないなんて、もうパフォーマンスだろうがやるしかなかったんですね。

 

何事にも例外というのはありますからね。

本当に別のやり方はなかったのかな?という疑問は残りますが…。

社会的に許容できる範囲であり(人によるけど)、目的の方向性は大いに認められるものなので、こうも支持者が多いのだと思います。

 

私の意見はこうです。

 

まず、民主的な方法で決められたルールは守るべきである。

そして、ルールを変更するルールもまた民主的に、だれもが主張しやすく、議論されやすくなるよう整備するべきである。

 

そしてもちろん、子連れ会議OK派ではあります。

これは何もみんな子連れで仕事しようよと言ってるわけではないですよ、危険な職場だってあるし、子連れだと支障のある場合だってたくさんありますもんね。ま、いちいち言わなくてもわかることだろうけど、言っておかないと、そういうところつっこんでくる人いるから。

 

選択肢はたくさんあったほうがよい、ということです。

子連れ会議OKなだけでなく、託児所や保育園をだれもが気軽に利用できるようにすることが大事だと考えます。

 

今回の件は、単に「ルールに不備があった」ために起こったことではないでしょうか。

なのに、「ルールは守るべき」派と「子連れで仕事できるような社会を」派とで対立しているのは非常におかしなことで残念に感じました。どちらも間違っていなく、対立するようなことではないのでは?だからだろうね、「どちらも理解できる」とか「モヤモヤする」って感想や意見をけっこうみかけたのは。

 

赤ちゃん連れに厳しいのではなく、ルールを守ることに厳しい。

赤ちゃん連れを排除しようとしているのではなく、ルールを守ることの大切さを訴えている。

その違いを理解していないと危険なのではないかという気がしました。

 

まぁ私はルールを守ることに厳しいタイプなのかもしれませんね。

普段、PTAに対してルールを守れよと言ってるのに、どうしてこの件だけルール破りOKと簡単に言えましょうか。

 

私はルール破り正当化の理由をすごく考えて、一番最初に述べたような理由ならOKなのでは、という結論に達しましたが、どういうわけか、いわゆる著名人とか発言力のある方々がこぞって「海外は〜」とかその他納得いかない理由をガンガン発信してるんですよね。

 

なんかもう、赤ちゃん連れママの破壊力すごい、としか言えないような。

子連れ時代キターーー今だ〜突撃〜!的な。

 

ネット上では普段は憲法守れだのルールを守れだのという主張があれだけ多いのに、赤ちゃん連れ市議がルール破ったら途端にルール破りOK・・・どうなってるんですかね。←個人的に受けた印象ですけど。

 

おらおらどけどけ赤ちゃん連れが通るぞこらぁ〜的なのは誰も望んでませんよね?

そんなのは、ただの「弱者の横暴」ですから。

子育てしながらでも働きやすく、生きやすく、そんな社会を望んでいるんですよね。

多くの人が望むところは同じなのに、不要な対立が起きているようで、また言うけどホント残念。

 

ここぞとばかりにあの場にいた男性議員を汚い言葉で罵っていた人もいて不快に思いました。

緒方議員がおっしゃってましたが、通りがかった議員さんで、赤ちゃんににこっと微笑んでいかれた方もいらしたそうですし。

応援したいという気持ちを持っていた議員さんもいたんじゃないでしょうか。

 

あと、『ルールを破った人を全員許容するのか、というのは極論、0か1かではなく、0.1とか0.2とかを目指して議論するきっかけになればよい』という意見も、まったくそうだな、と感じました。

そうそう、これだよこれ、今回のことが議論するきっかけになって、早く赤ちゃん連れ会議OKになることが大事なわけですよね。

別にルール破りすべてOKだよって話じゃない。

 

 

ってことなんだけど、今回のルール破り正当化についての考えは少し整理しておきたいです。

 

ルール破りOKを正当化する理屈として納得いかなかったものを、なぜ納得いかないのか整理してみました。

まず、「ルールが悪いかどうか」と「ルール破りは正しい行為か」は分けて考えるべきと思う。一見、ルール悪けりゃ破ってもいいじゃんと思えるんだけど、じゃあその悪いって誰がどう決めるのよってちょっとややこしくなるんで。

 

◆海外では子連れ会議OKである〜の類。

だって海外はもう子連れOKのルールになってるんだよね。

で、それは時間かけて話し合ってそう決まったことなんでしょ。見習うならそこじゃない?

 

「海外で良さそうなことやってるよ、日本でもできそうじゃない?」ってのなら共感できるけど。

PTA問題でもこれくらい「海外では強制なんてないよ」とガンガン主張してもらいたいものですね。

 

◆「やり方が〜と言う人は卑怯だ」とかなんとかの類。

私にはまったく意味不明でした。

主張内容の正しさと、それを表明するための手段の適切さは別問題なのだから、後者の部分だけを批判しても何もおかしなことではないのでは?

やり方がまずいと指摘する人の中には、主張そのものは支持している人がたくさんいた。

卑怯と言う人がそこで思考停止させている点において卑怯であると思うのだけど、私は。

そんな人格攻撃的なこと言われてもね。

 

それとも、正しい主張を押し通すためには手段を選ばなくて良いということでしょうか?

PTAは本来は素晴らしいボランティア組織であるはずなのに、ズバリやり方が非常にまずいと私は常々思っています。

 

◆他人の生命の安全や財産を脅かすことがないなら、主張する手段がルール破りであっても良い。

これは、相模原事件のような場合を例として、ルールを破っての主張はダメだとする意見に対する反論。

程度の問題なんですかね?

迷惑レベルが低ければルール破りは正当化される?わけないじゃん。

 

でもまぁ、今回のは「この程度」だったから世間に受け入れられたってのがありますよね。

これが「私の主張を受け入れないから反対意見の議員を皆ぶっ殺した」という話だったら、世間はまったく違った反応でしょう。

なので、この意見はルール破りの正当化にはならないけど、ルール破りが世間に受け入れられた(大目に見てもらえた)理由としてはありだな、という感じです。

 

◆議会が40分遅れることより働く母親の立場が何十年も停滞していることの方が大変。

わたしは常々、他人の時間を無駄に使うことに鈍感であってはならない、と思っている人間です。

なぜって、自分の限られた時間をとても大切にしているから、他人の時間も大切にしたいと思うからです。

 

議会が遅れることも、ワーキングマザーの立場が停滞していることも、どちらも大変なことだよね。私はそう思う。

議会では、女性子育て問題だけを話し合うわけではないですよね。他にも長年停滞している問題はあるかもしれない。

議会の時間と、取り上げる問題の重要さ、って同列に比較できるものなんですかね?

問題の大小と、時間の長短を理由にしてのルール破り正当化はできないですよね。

 

「私の問題のほうが重要なんだから、私のために議会の時間をつぶしてもいいんです!」とならないでしょ。

 

でも、今回の件により議会が遅れたことで、ワーキングマザーの立場が少しでも良くなるのなら、無駄な時間にはならないことでしょうね。

「議会が40分も遅れるなんてとても大変なこととさも正しい事のように言っていたが・・・」という意見があった。

正しいでしょう。大切な議会の時間ですから。

 

自分だけの時間ではない、多くの人のための、大切な時間なのだから。

 

◆女性不可、黒人不可のルールがあった時代を持ち出す人。

なぜに女性排除、黒人排除を目的とした差別ルールと同列に語れるんですかね。

「議場に議員以外の者は入れない」というルールは特段おかしなルールとは思いません。赤ちゃん排除目的で作られたルールではありません。単に想定してなかっただけでしょう。

 

また、過去に正しい主張のためにルール破りをして社会を変えることに成功した事例があるからといって、じゃあ僕もやって大丈夫だよね、となるわけではないですよね。

 

差別された人たちが差別ルールと闘う、議会で話し合う権利を有する議員が議会のルールを破る、次元が違うというのはこういうことを言うのでは?

 

◆議論してルールを変えるべきという奴は、それにどれだけの労力と時間がかかるかわかってない。

ここまでくると、もはや緒方議員を本当に応援してるのかどうかわからなくなっちゃう。

「話し合いなんか時間かかるだけだから、強行突破だ!」え、乱暴ですね。

 

なんかもう、議会って何だろう?的な次元に突入しちゃってますよね。

議会において、時間と労力かかるって理由で話し合いすっ飛ばしていいわけないでしょうが。

日常的にそういう場面はあるかもしれないけれど。

 

それに緒方議員だって話し合いすっ飛ばそうっていう気はないですよね。妊娠中から相談し、いろいろ話をしたけど取り合ってもらえなかったっていう経緯があるんだし。

 

それに、「議論してルール変更」と主張は何も間違っていないし、労力と時間がかかるのもわかった上で主張しているんだと思いますけどね。

 

労力と時間を費やして、議会民主制を築いてきたのだよ。

人権とか選挙権とか民主主義だって、やっとの思いで手に入れたものじゃないんですかね。

それだけに、議会でルールを破るって、すごいことですよ。それだけの想いがあって必死に訴えたんですよね、緒方議員は。

 

『議論するのが仕事である議員が、議会のルール変更を議論することすらできなかった』それだけの理由じゃないですか、今回のルール破りを正当化できるのは。

 

 

そろそろ考えるのに疲れたので、このへんで終わります。

 

緘黙症により挨拶できない子

  • 2017.11.15 Wednesday
  • 15:39

ちょっと前に話題になっていた二つの話。

 

見た目ではわからない病気を抱えた女子高生。

体調悪くバスの優先席に座っていたら、

「ここはお前ら学生が座るところと違う!」と怒鳴られた。

 

聴覚過敏の子供に防音具としてイヤマフをつけていたら、

「小さい子にヘッドフォンで音楽聴かせて!会話しなさい!」と叱られた。

 

とにかく何かしらここぞとばかりに他人を批判したい人っていますよね。

優先席に女子高生が座っていたら、体調悪い人かな?としか私は思いません。

さすがに私も聴覚過敏については気が付かなかっただろうと思います。でも、見知らぬ他人にいきなり「会話しろ」と叱るなどという発想にはならないですね。あ〜音楽聞いてるのかな〜程度にしか思わない。

 

聴覚過敏の子とイヤマフ。

ひとつ勉強になりました。

本当に、知るということは大切ですね。

 

私はこの話を聞いて、自分の子供のころを思い出しました。

以前も書いたと思いますが、私は子供の頃、場面緘黙症でした。

家では普通に話せるけど、学校などで話せなくなる情緒障害です。

 

とにかく、毎日挨拶もできないものですから、

近所のおじさんにはよく叱られました。

挨拶もしない、しつけのなっていない、非常にマナーの悪い子扱いでした。

 

当時、場面緘黙症なんて言葉を知ってる人は周囲にはまったくいなかったと思います。

今でも、知らない人がいると思います。

 

だから、また言いますね。

しつけの問題ではありません。

話したくても話せない、言葉が出てこないんです。

自分でもどうしてそうなるのかわからずに怖くて苦しんでいるんです。

 

もし、緘黙症の疑いのある子に出会ったら、適切な対応をお願いします。

 

JUGEMテーマ:場面緘黙症

JUGEMテーマ:保育士

 

みんな一緒教

  • 2017.10.30 Monday
  • 12:39

先日、うちの子だけ私服で集合写真を撮影したら、保護者から「なぜみんなに制服を着せないのか」といったクレームがきたという話を書きました。

 

そして、生まれつき茶髪の女子高生に学校側が黒髪を強要したというニュースが世間を騒がしております。

それをきっかけに、ネットでは似たような話がうじゃうじゃ出てきていて、私の幼稚園の制服問題なんてすごくちっぽけ過ぎる感ありますが、根っこは同じ問題ですね。

 

みんな一緒教がこんなに蔓延してるとは。

改めて驚きです。

 

このニュースに関しては、真相はよくわからないですが、

テレビに出てた教頭先生が、白髪混じりチリチリM字ハゲでノーネクタイで肌着見えてる、というお姿だったので、髪型にも服装にもかなりゆる〜い学校に見えてしまいましたね。とても生徒を不登校になるまで追い詰めた厳しい学校とは思えないような。

確かに見た目の印象って大事ではありますね。

でも最も大事なのは人権でしょう。

 

この学校では、例え金髪の外国人留学生であろうと黒に染めてもらう、そうですが、完全に狂ってる。ヤバすぎですよね。

 

髪の毛の色についての私の考えは、

地毛だろうが染めてようが、髪色はなんでもよい

です。

市役所行って受付の人の髪の毛がピンク色でも別にかまいませんね。

 

とにかく、人権感覚に乏しい社会なのだということがよくわかりました。

保育園でもクレヨンのうすだいだい色のことを「これは肌色です」と教えている先生います。

もう、肌色と言わず、うすだいだい色とかペールオレンジなどと呼ぶようになって何年も経ってると思うのですが、現場では今でもこうなんです。

 

まぁクレヨンの色などは、私もたまに肌色と言ってしまうんですが、

教える場では絶対使わないようにしています。

 

時代はどんどん変わっていきます。

子供に関わる人たちは特にですけど、時代感覚、人権感覚を磨いていかないといけないわけですよ。

私も常に勉強です。

 

今回のニュースを機に、

学校のおかしな校則や、社会のおかしなルールを見直していけたらいいですね。

 

 

↓以下雑談。

 

以前にもどこかで書いたけど、

外国の先生から「日本人はほとんど同じ肌の色、黒髪、黒い目で生まれてくるから、人間は生まれつき違うのだということが感覚的に理解しづらいのではないか」と言われたという話。

 

金髪から黒髪、目の色も肌の色も様々な人が暮らす国では、髪の色なんて何色だろうがどうでもよい話でしょうね。

全員黒髪にしろとか、実にくだらない、そして大変な人権侵害であることは明白ですよね。

 

髪の色によって、真面目そうだとか不真面目そうだとか、それってそう思う側の思い込みでしょ。

 

歯のない人は信用するな。という言葉をむかしよく言われました。

歯がない=身なりを気にせず生活習慣が乱れている=性格がだらしない=金銭にもルーズ

という連想ゲームのような感じです。

 

刺青とかでもそうなんだけど、

あの人刺青してるから怖いヤクザかしら?とか。

本人はただのファッションのつもりでも、周囲がそういう目で見てしまう。

 

私がお水業界にいたころは、化粧しろ、髪は明るくしろなどと言われましたが、

私は薄化粧に黒髪ストレートで押し通しましたね。

そしたら性風俗のスカウトマンによく声をかけられるようになり、なぜ私に声をかけるのか聞くと、

「黒髪は貴重。真面目そうに見えるので業界で人気がある」というのです。

意外な自分の商品価値に気付くwww

 

そういう目で見る人がいるから、自分はこうしよう、

または、

そういう目で見る人もいるけど、自分はこうしよう。

 

どちらでもいいけど、

自分を表現することは自由であるべきよね。

 

最後にひとこと、

学校は、髪の色なんかより、

頭ジラミの流行をどうにかしろ!

 

 

教師の厳しい叱責により

  • 2017.10.21 Saturday
  • 21:11

教師の厳しすぎる叱責により、尊い命が失われました。

お悔やみを申し上げます。

 

私はこのニュースを聞いて、自分の長女のことを思い出しました。

もしや、自殺した中学生は発達障害の疑いがあったのでは?と思っていたら、やはりそのような記述がありました。

 

私の長女も、発達障害なのでは?と疑っています。

 

携帯電話や家の鍵をなくす、かばんをバス停に置き忘れる、間違って他人のかばんを持ち帰る、大事なテストの日を間違える、買い物行って買ったものを忘れて帰る、手先の不器用さ・・・などなど。

こんなことがしょっちゅうで、警察沙汰になったことも二度あり、さすがの私もキレることしばしば。

 

そして長女が高校生のとき、彼女は部活の顧問の先生から非常に厳しい叱責を受けました。

叱責というか、ただ怒鳴り散らしているだけ、という印象でしたが。

 

大部分は忘れてしまいましたが、とにかくボロカスに言われたということは覚えてます。

「みんな迷惑しているから部活をやめろ」

「あなたは人とかかわらないような職にしか就けない」

というような内容だったんですが、人格攻撃が激しいものだったと記憶しています。

 

そのため、長女は「じゃ、やめます」と言って部活やめてきました。

好きで入部した放送部で、周囲からの推薦もあって部長を務めていたのですが、「そこまで言われて続ける気はない」とあっさりしたものでした。

 

当然、私はショックだったので、すぐさま学校へ電話するわけですが、

その顧問の先生は電話に出るなり、

「すみませんでした、まさか本当にやめるとは思わなくて、励ますつもりで・・・」

 

どこが励ましなのかさっぱりです。

将来の進路のことまでボロカスに言われて、指導でも励ましでもなんでもありませんでしたよ。

 

でも、先生を擁護する気はまったくありませんが、

発達障害なのではと疑っていた長女が何かやらかしたのだ、ということは容易に想像できました。

 

部活でのスケジュール管理のできなさがきっかけだったようです。

あ〜と思いましたね。そういうの、できないんです、彼女。

そういう人が部長なんて、そりゃ無理だわと内心思いました。

 

そして、この際はっきりさせよう!と思い立ち、

発達障害支援センターに相談し、小児精神科で検査してもらいました。

ところが、結果は「診断名をつけるほどではない、そういう性格です」

 

またこうも言われました。

「その子と親をみて、診断名をつけるかどうか決めることもある」

 

ボーダーにある場合は、その子の困り度次第で支援が必要かどうか決めるそうです。

確かに、長女本人は困ってないんです・・・困ったことに。

まぁ私自身も、もう彼女の特性を受け入れている頃でしたから、どっちでもいいやという感じでした。

 

そしてそこで心理カウンセラーの先生からこう予言されます。

「こういう子は、入れるからと選んでも(看護科志望でした)、実習でつまづいてやめる子が多い」

 

長女は成績は良かったので、難関大の医学部に合格し、看護師を目指すのですが、

実習が始まり、周囲から厳しく叱責される日々が続き、「やっぱり私おかしいかも、もう一度検査しようと思ってる」と連絡があり、それがいいと私も賛成したのですが、しばらくして、「精神的にもう限界だから大学やめさせて欲しい」とメールしてきたのです。

 

予言通りの結果となりました。

 

私が驚いたのは、私や顧問の先生があれだけキレても、ケロッとした表情で気にもしないタイプの子だったのに、そんな子が「精神的に限界」と言ってきたことでした。

 

もう二十歳の大人になっていたし、本人がそう言うならしょうがないと退学を承諾しました。

逃げたいときに逃げられるっていうことは、良いことだとも思いました。

 

もしあのとき、発達障害であると診断されていたら、また結果は違ったのではないかと思っています。

国立大学では、発達障害者への配慮義務があるので。

まぁ長女は発達障害ではなく単なる性格、という診断だったのですが。

 

そしてもう一例。

昨年、小学生の次女が帰宅するなり「先生が怒鳴ってすごく怖かった」と言ってきたことがありました。

この件についても学校に電話し(他にも用があったので)、「うちの子がすごく怖がってました」と伝えました。

 

次女の友達で、近所の子なのですが、何度も何度も宿題を忘れる子がいます。

何度注意されても宿題をやってきません。

なので先生がついにキレたようです。

普段とても優しい先生なので、よほど腹が立ったのでしょうね。だからといって感情的に怒鳴っていいわけではないですが。

 

その子は宿題だけでなく、友達との約束も守れません。

うちの子も何度も約束をすっぽかされ泣きながら帰ってきたことがあります。なのでその子とは約束をせず、たまたま遊べたら遊ぶというルールを作っています。

 

先生も家庭訪問を何度かしているようですが、まったく改善されません。

私は発達障害の可能性ありなのでは、と気にかけてます。

学校ではすでに問題児として「有名人」だそうです。

中学生になればもっと厳しい先生はいそうだし、心配してます。

 

なんでもかんでも発達障害で片づけようというのではなく、

もしかしたらそういう可能性もあるかもしれない、ということを念頭に置いて指導にあたるべきではないかと考えます。

その前に教師に発達障害についての知識がないとダメなんですけど。

(感情的にキレたり怒鳴り散らしたりは論外)

 

どうか、学校が誰にとっても安全で安心できる場所になりますように、心から祈ります。

相互承認の精神

  • 2017.10.15 Sunday
  • 16:48

先日読んだ雑誌二冊に、偶然、似たような話が載っていました。

いやテーマは違う話なんだけど、結論が同じって感じです。

面白かったので、簡単に紹介します。

 

「地域連携というけれど」(こころの科学5月号)

『家庭と地域社会、さらには学校が、同じ価値観を共有するということ自体が、もはや無理な時代になってきているのかもしれない。むしろ、異なる価値観をもった人たちが、それでもしあわせに共存できる社会のあり方を考えるべきなのでは、と思う。』

 

「道徳ってなに?」(教員養成セミナー10月号)

『本当に重要なのは、相手の価値観や道徳観がどうであろうが、それが人の自由を侵害しない限り「承認し合う」ことである、と。その意味で「相互承認」とは、道徳の一番根っこの本質である以上に、異なるモラルを持った人たちが共存するための「社会ルール」の本質なのです。そのため私は、現代の民主主義社会において必要なのは、特定のモラルを教える「道徳教育」ではなく、異なるモラルを持った人たちが共にルールを作り合う「市民教育」だと考えています。』

 

 

「道徳の本質は相互承認である」というのはヘーゲルの言葉だそうです。

ヘーゲルはまた「徳の騎士」についても述べています。

徳の騎士とは、例えば「不平等は絶対に許されない」などと主張し「徳」に燃える人のことだそうです。

 

あ〜いるいる、そういう人、ある組織にはいっぱいいるんじゃないですか?

 

そのような人は、不平等の元凶とされる人びとに対する攻撃を、かえって正当化し、ひどい暴力にもつながります。

徳の騎士のその心意気は立派なんだけど、「自分こそが正しい」と主張するひどく独善的な人でしかない。

 

ヘーゲルは言います、

道徳とは、そのような独善的な善を主張することでは断じてない。

どのような価値観や感受性や道徳観を持っていようが、それが他者を侵害するのではない限り、まずは承認することである。

この相互承認の精神こそが、道徳の本質である。

 

 

というようなことが書かれており、

大変共感しているところです。

 

私は「徳の騎士」に立ち向かう「元凶とされる人びと」の一人でありますw

どこまでが自己責任?

  • 2017.10.03 Tuesday
  • 18:49

先日書いたんですけど、

「親を選んで生まれてくる」という話。

 

どんなひどい親でも、「あなたが選んだ親でしょ」と言えてしまう冷酷さ。

仮にですよ、仮に百歩ゆずって、そんなひどい親を選んだのが自分だとします。

 

ひどい親だとわかってて選んだんですか?

もしかしたら、最初はそんなことわからずに、なんとなく選んだだけかもしれないじゃないですか。

最初から虐待するために産む親なんてほぼいないと思いますが。

 

とにかくまぁ、生まれる前にまで遡って自己責任で片づけちゃうなんてもう論外なんですけど、

例えば、離婚によってシングルマザーになった人。

どんなに生活苦しくても、「自分で選んだ道でしょ」と自己責任で片づけられちゃいますよね。

 

私も、未婚シングルになって、妊娠中から一人きりで大変な思いをしましたが、

自分で決めた道だからと弱音吐くことなく、家族を頼るでもなく、頑張ってきました。

 

で、今年お盆に実家に帰省したときのことです。

叔母から、「いやぁ〜みきちゃんは一人で子ども育てて大変でしょう?」と言われたので、

何か手助けでもしてくれるのかと思いきや、

「うん、まぁ大変だけどもう慣れたね、出産から一人きりだからね」と返したら、

叔母は一言、

「まぁ自分で選んだ道だからしょうがない」

と冷たく言い放って終わりだったんですよね。

 

どうして冷たく聞こえたかというと、

なぜ未婚で産むことになったのか理由を聞かれたこともなく、

なので私も一度も話したことなく今に至るわけです。

理由も経緯も何も知らないのに、「自分で選んだ道」と決めつけて片づけてしまうのは、

あまりにも冷たく聞こえるわけですよ。

 

他の家族だったらどうするのかはわかりませんが、

例えば私なら、娘がそのような事態になったなら、まず「なぜ?どうして?」

それから「何かできることがあれば手伝うよ、いつでも頼って」となるでしょう。

 

自分で選んだ道だから自分で解決しなよ、って他人に言われたくないです。

自分自身がそう思って頑張るぶんにはいいんだけど、

この言葉って、安易に他人に言うべき言葉じゃないなと思いました。

 

なので叔母にも、

「それは一番言っちゃいけない言葉だよ」と言い返してしまいました。

叔母はきょとんとしてました。

「母子家庭の人はね、言われなくてもそう思ってるから誰にも頼ることができずに無理しちゃうんだよ」

 

一般論的に言ってしまいましたが、そのまんま、私自身のことなんですよね。

 

私の例ですが、

1.ある男性とお付き合いしました

2.妊娠しました

3.堕胎してほしいと言われました

4.別れました

5.一人で出産しました

 

3以外は確かに自分の判断が入って決めたことですね。

この人と付き合おう、この人の子供を産もう、この人と別れよう、一人で産もう。

 

そして3のような事態になったのは、1でそのような男性を選んだ私に責任があるということでしょうか?

DV被害にあう人もすべて自己責任で、そのような相手を選んだのが悪かったのでしょうか。

 

どこまでが自己責任なのか?

 

交通事故にあったのは、そんな道路を通ってしまった自分が悪かったんですかね。

不倫するしないは完全にリスク予測可能で選択できることなので、家庭崩壊してもそれは自己責任と言えるかもしれませんね。

 

あの時ああすればよかった、こうすればよかったと思うことはいくらでもあります。

でも私自身は、今がとても幸せなので、特に後悔するようなことはありません。

みんながみんな、常に正しい判断をし、正しい選択をし続け、人生うまくいけばいいですよね。

でもそんな人ってどれだけいるの?

そもそも正しい選択ってなんなの?

 

「あなたが選択を間違った」と言うのはたやすいです。

でも、大事なのは、これから先の未来なわけですから、

じゃあこれからどうするのか、

どうしてあげることがあなたのためになるのか、

そういう視点をもって言葉かけをしなければ、と思いました。

都合の良い考え方

  • 2017.09.28 Thursday
  • 15:28

先日、給食の無理強いについて書いたばかりですが、こんな事件が起きてしまいとても残念。

 

『給食の完食指導で5人が嘔吐 小学校教諭を厳重注意』

 

教委は「配慮に欠けた指導」と言ってますが、

指導っていうか、もうこれ立派な傷害じゃん。

 

人は、本当に都合の良い言葉を使うもんだと思います。

 

傷害 → 指導

虐待 → しつけ

 

でもまぁ、他人に実害がないぶんには、何をどう都合よく思おうがいいわけです。

だけど「都合の良い思考癖」というのは本当に厄介なものだな、とも感じます。

 

昔、キャバ勤めをしていた頃、あるキャバ嬢に運命を感じてしまったオッサンがいました。

そのオッサンが若いころ大恋愛をした相手と、そのキャバ嬢の誕生日が一緒だったそうです。

それで、オッサンはそのキャバ嬢を「運命の相手だ」と感じたそうです。

 

その話を聞いて、私は、

「え〜すご〜い、私もその子と誕生日同じなんですよ」と言いました。(本当に同じ)

オッサン「え、そうなんだ!」と言って終わり。

 

なんだよ、私には運命感じないのかよ。

都合良すぎだろ、オッサン。

 

その後オッサンは色恋営業で金を巻き上げられ、

陰でバカにされるただの常連客になるわけです。

 

そんな風に、物事を都合よく解釈し意味付けしてしまうってことは本当によくありますよね。

また別の例ですが、都合良くというか「悪く」思い込んでしまった例です。

 

私の友人のバイト先のそば屋に、常連客のおばさんがいました。

彼女の夫は刑務官で、死刑執行人のひとりでした。

三人の子供がいますが、全員、病気や事故で障害者になったそうです。

彼女は、「人殺し(死刑)をしたから、子供たちが障害者になった」と思いこんでいました。

 

 

そして、この前からツイッターでよく見かけるようになった「子どもは親を選ばないで生まれてくる」ってやつ。

 

「子供は親を選んで生まれてくる」って話は確かによく聞きますよね。

「家族大好き、この親選んで良かった♪」と幸せ家族だけで完結してれば別にそれでいいと思うわけです。

 

そんなん本気で信じてるのは、江原啓之一家だけかと思ってたら、

どうやらそうではないようで。

 

虐待されてる子は、「こんな親選んでくるわけないだろ!」となるだろうし、

「自分が選んだのが悪い」と自分を責めてる子供がいたら気の毒過ぎます。

そういう人に対して「あなたが選んだ親でしょ」という考えを押し付けるようなことになると、

美しいお話も途端に残酷物語になるわけですよ。

 

だから、「子供は親を選ばないで生まれてくる」という絵本を作る企画があると知り、それいいね!と思うわけです。

ただ、同時に、「親に苦しめられている子どもたちが、親を選んで来ているはずがない」ということも言えるはずがない、と私は考えています。

 

「親を選んで生まれてきた」

「親を選ばず生まれてきた」

どちらの考え方も、

結局のところ、

あの世いかなきゃわかんねーだろ!話に過ぎないからです。

 

自分に都合の良いほうを選べばよい。

 

こちらの考え方で苦しんでる人がいたら、

あちらの考え方を教えてあげる、というだけのことだ、

ということは頭に入れておこうと思います。

 

事実や真実がどうあれ、

その考え方がその人の生き方にどう影響するか、ってことが重要なわけで。

 

人は、

単なる偶然の出来事に過ぎないことを、

都合良く解釈し意味付けする。

 

 

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